早稲田大学 岳南稲門会

平成24年度(第66回)岳南稲門会総会
平成24年12月1日(土) 於 ホテルグランド富士
時間:16:00〜20:00

会費:10,000円(うち3,000円は年会費


講演:静岡県庁 危機管理部 危機調整監 小平 隆弘氏
 

岳南稲門会ゴルフ同好会会員 各位
三田会ゴルフ愛好者 各位

                  平成24年8月17日

       早稲田大学岳南稲門会
ゴルフ同好会 会長 河 合 重 三
当番幹事 川 口 直 之、立 石 雅 世
                 TEL:0545−52−4193
                 FAX:0545−52−5782

拝啓 残暑なお厳しい頃ですが,会員各位には,益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて,恒例の稲門会秋季コンペを下記の要領で開催致します。
各位には奮ってご参加下さいますよう,ご案内申し上げます。
敬具
               記
1 開催日    平成24年10月27日(土曜日)
         2 会 場    富士宮ゴルフクラブ(TEL0545−23−3000)
3 スタート   AM9時03分(5組予約済み)
4 集合     AM8時30分
           5 会費     5000円(プレー費・昼食費等は各自ご清算下さい。)

 出欠席を下記により10月5日までに立石宛ご連絡下さい。ご夫妻お揃いでのご参加も大歓迎です。
なお,初参加の方は,ハンディを自己申告して下さるようお願いします。
*FAXで返信の方 : 0545−52−5782
*Eメールで返信の方: tlo@tateishi−lo.jp
(ティーエルオー@タテイシ ハイフン エルオー.ジェイピー) 

 
 


再び 「あしこ」か「かしこ」か
 早稲田大学校歌の3番の”あれ見よ「あしこ」か「かしこ」”問題は以前にも書き留めていましたが、岳南稲門会会報第8号に整理して下記のとおりに投稿しました。

 早稲田大学校歌の3番の「あれ見よ かしこの常盤の森は・・・」の「かしこ」は原作では「あしこ」です。
 以前に西村清常先輩の父君が持っておられた「早稲田歌集」(明治40年4月5日、進文盟社出版部)でも「あしこ」になっていました。また、グリークラブや早稲田混成合唱団も「あしこ」と歌っていると聞きました。

 ”都の西北歌詞に謎”という題目で、石井洋一氏が平成14年3月15日の日経新聞の文化欄で考証を述べられています。たとえば、「かしこ」の初出は昭和15年の理工科と政治経済学科の卒業アルバムとか。

 オピニオンNo.264 「都の西北」の研究「かしこ」問題には「相馬御風自身は校歌の3番の歌詞を「あれ見よあしこの常盤の森は…」と作詞していますが、現在、学生に配布されている歌詞には「あれ見よかしこ」となっています。とあります。

 2007年10月20日に行われた校歌研究会主催の「第2回 校歌シンポジウム」において、シンポジウム実行委員長 太原正裕さんは次のように見解を述べた由です。
 "漢字で書くと両方とも、彼処もしくは彼所であり、意味も「少し離れたところ」で同じです。「あれ見よ」「あしこ」で頭韻を踏んでいることもあり、原典はあしこであることは間違いありません。どうやら、大正時代から「あしこ」と「かしこ」の歌詞が混在し始め、昭和47年に混乱を収拾するため大学理事会で「かしこ」に統一してしまったそうです。あくまで作詞者は「あしこ」これを今後どうするか、大学当局とも話し合っていきます。"

 その後どのようになったかはわかりません。春の早慶戦で応援団はどっちで歌っているか確かめようとしましたが、歓声に消されて判然と聞き取れませんでした。応援部が呉れたファイルには「かしこの」と記載されています。

 早稲田125周年記念誌の写真史に、作曲者 東儀鉄笛の自筆の校歌楽譜が掲載されていて、これをみると「あしこ」でした。小さな字なので一見「か」と見えなくもないのですが、他の箇所にある「か」と明確に違っていました。
 元々の「あしこ」を「かしこ」に変えることもないと思い、岳南稲門会においては原作通りにしようと提案したいと思っています。(下郷二三男)
 
 *本年度の総会で、「あしこ」と唄われました。

動画 早稲田の栄光 1 動画 都の西北 1
動画 早稲田の栄光 2 動画 都の西北 2
海ゆかば(富永 俊治 作)
ラストゲーム 最後の早慶戦の背景


早稲田大学校友会 静岡県支部 岳南稲門会
SINCE 1946(昭和21年)

岳南稲門会は富士山の南の地(岳南)、富士市・富士宮市および富士川町の校友の集まりです。
戦後まもない、昭和21年3月に齊藤了英氏が発起し川島禮一氏たちが呼応して発足しました。
発会式は昭和21年5月17日、富士市吉原の松葉楼で17人の方たちによって行われました。
初代の会長には福島忠一氏が就任しました。



発会式 昭和21年5月17日
富士市吉原の松葉楼


創立発起人 斉藤 了英さん(当時は美英、昭和12年)
川島禮一さん(第2代会長)と斉藤 了英さん(八甲田山)

初代会長 福島 忠一さん

岳南稲門会の初代会長 福島 忠一さんは、岐阜県のご出身で大正2年に理工学部電気工学科を卒業され、東京電力で水力発電などのお仕事をされていました。その後大昭和製紙株式会社に招聘され、昭和21年から昭和39年までは大昭和製紙の動力部門担当の役員(常務取締役)として大活躍されました。

大昭和製紙は昭和25年に富士工場、昭和35年に白老工場を立ち上げていますが、エネルギー関係は福島さんがその総帥でした。

会合の席にお出かけのときは御着物で調えられるのが常で、やさしく好々爺という風情がありました。当時、大昭和には女子バスケット部があり(昭和30年神奈川国体で優勝)、直属の部下で大学後輩の古郡 栄さん(昭和24年 電気卒)が早稲田の篭球部マネジャー経験を生かしてバスケットを指導されていたので、いきおい選手たちが電気部に集まってきました。 

福島さんはなにくれとなく選手たちにご配慮をされ、ご自宅に招いておもてなし下さって激励と支援されておられました。福島さんを「お父さん」と呼んでいた方がおられた程慕われていました。

カメラを愛好されていましたが、写真を撮るとずっと後になっても写した方にひとりづづ必ずお渡しになり、とても律儀なので皆さんから大変に喜ばれていました。

ご墓所は大運寺(富士市)ですが、奇しくも岳南稲門会第2代会長の川島禮一さんの菩提寺でもあります。


石井 真峰さん

岳南稲門会の創立メンバーのお一人である石井 真峰さん(まみね)さんは大正5年に文学部英文科を卒業され(卒業証書に総長 伯爵 大隈 重信、学長 法学博士 天野為之)、その後 ワシントン大学およびコロンビア大学で学ばれました。 

 帰朝後は早稲田大学高等学校教授につかれたのを始めとして、富士中学校・横浜商専・東商大・静岡高などで教鞭をとられました。

 数々の公職を勤めておられますが、昭和46年に浄土宗大本山光明寺法主になられております。(鎌倉、昭和49年に大僧正、富士宮市・大頂寺ご住職) 

数々の著書(英文も含めて)、訳書および論文が多数あります。
シカゴ大学名誉教授(人類学)F・スタール博士とご親交があり、「東海道行脚」の翻訳をされ朝日新聞に連載されました。 スタール博士はアイヌ民族の研究で来日し、日本の民俗・風習の研究に尽くされ、お札博士としても名高い方です。



石井真峰さんは「しんぽう」さんと呼ばれて親しまれておりました。小学生の通信簿から大学の卒業証書に至るまで几帳面に取り残されておられます。シアトル時代には安部磯雄さんと野球部一行を迎えての校友会に出席され、その記念写真まで残っておりました。

またご遺品の中に早稲田大学と早稲田行進曲を収めたSPレコードがあり、このたび早稲田大学・大学史資料センターに収まり、2007年の秋に創立125周年記念「早稲田大学校歌および応援歌の企画展」に出展されます。


 父 清策は明治43年に早稲田の商学部を卒業しました。和服にステッキ、カンカン帽の写真や、引出しに「早稲田歌曲集」が残っていましたが、ポケットに入る位の小さな冊子で毎年各運動部が作った応援歌が載っているものでした。いまや希少価値がありますので早稲田大学図書館に寄贈しておきました。
 (昭和22年 理工学部卒 西村 清常
 前 岳南稲門会副会長)
 

岳南稲門会 事務局

〒 417−0045 富士市錦町1−9−5
太田 康彦

TEL&FAX: 0545−53−2148

Email: waseda.gakunan@gmail.com


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